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草加宿の歴史

日光街道と草加宿

江戸時代、千住宿に次ぐ日光街道第2の宿駅として発展した草加宿。その誕生のきっかけとなった街道整備に着手したのが今からさかのぼること400年、 慶長11(1606)年の事です。

当時の日光街道の千住と越谷の間は沼地が多く、大きく迂回して通らなければなりませんでした。
そこで、宿篠葉村(今の草加市松江町)の大川図書という人物が、茅野を開き沼を埋め立て、それまで大きく東に迂回していた奥州街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。

この時、沼地の造成に沢山の草が用いられた事から「草加」と呼ばれるようになりました。 その後、直線となった千住・越ヶ谷間に宿駅を設けることが幕府によって命じられ、 寛永7(1630)年に付近の村々によって草加宿が設置されました。
こうして誕生した草加宿は、参勤交代や日光社参、さらには一般旅人の往来もあって大きなにぎわいをみせるようになりました。元禄2年(1689)には松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で草加宿に歩みを残しています。

日光街道とは

江戸時代の五街道(東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道)のひとつで、 江戸から宇都宮を経て日光に至る街道を日光街道と呼びます。

徳川家康が日光東照宮に改葬された元和3年(1617)に、 街道・宿場がともに整備されました。 起点は江戸日本橋で宇都宮までは奥州街道と重なり、 終点は日光の鉢石宿までの21宿で142.8km(36里)の道のりとなります。

現在の草加市・日光街道

当地を南北に貫いた日光街道は、現在、県道足立・越谷線として整備されてますが、高砂1丁目の旧道南側詰から神明交差点にあるおせん公園までの全長約1.5kmが旧日光街道として残されていま す。

おくのほそ道風景地「草加松原」国の指定名勝に

国の文化審議会は平成25年11月15日に、松尾芭蕉が旅した「おくのほそ道の風景地」(10県13カ所)の1カ所として、「草加松原」を名勝に指定するよう文部科学大臣に答申し、平成26年3月18日 、「草加松原」は文化科学大臣から、国の名勝として正式に指定を受けました。
名勝指定は埼玉県内では56年ぶり。長瀞(皆野町、長瀞町)、三波石峡(神川町、群馬県藤岡市)に次いで3件目になります。

「草加松原」は、芭蕉が草加に足跡を記した頃からその後の時代にかけて松が植え足され、草加市中心部を南北に流れる綾瀬川沿いに、街道の両側に約1.5kmもの松並木にまで成長を遂げています。 幹周りが約2mにも及ぶ古木も含め、川沿いに延びる並木の風景は壮観であり、今なお『おくのほそ道』の時代の雰囲気を伝える風致景観の一つとして評価されました。 前身の 「今様・草加宿」市民推進会議では、かねてより旧草加宿と松並木一帯の整備と活性化について研究実践を重ねてまいりました。 今回の国の名勝指定によってさらに風致景観の向上に弾みがついたといえましょう。

草加宿と芭蕉

元禄2(1689)年3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。
後に日本を代表する紀行文学『おくのほそ道』として結実するこの旅は、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里(2400km)、150日間の壮大なものでした。

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす……」
(月日は永遠の旅人であり、行く年、来る年もまた旅人である。舟の上で生涯を過ごす船頭、また馬の口を取って街道で年老いていく馬方は、毎日が旅であり、旅を住処として生きている)
あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず……」と続きます。真の美を求め、身の回りの一切のものを捨てて、草枕の旅に出た芭蕉。悲壮感すら漂う決意のほどがうかがえます。深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見 送りの人々に別れを告げて歩み始めます。「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」 こうして芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8丁(8.8km)を歩き、日光街道第2の宿駅だった草加にたどり着きました。『おくのほそ道』の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになるのです。

芭蕉が訪れた頃の草加宿

芭蕉が訪れたころの草加宿は、戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5~6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。
芭蕉が訪れた頃は、草加宿が賑わい始める前だったのですね。 きっと、のどかな風景が広がっていた事でしょう。

その後の草加宿

それから約150年後、天保14(1843)年の調査によると草加宿は戸数723戸、人口3,619人と南北12町(1.3km)にわたって家屋が軒を接し、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋は67軒まで増加しました。城下町を除くと、日光街道では千住、越ヶ谷、幸手に次ぐ規模で、周辺の交通の要衝として栄えま した。

また綾瀬川では江戸中期ごろから舟運が始まり、魚屋河岸・甚左衛門(札場)河岸・藤助河岸が設けられて発展しました。

近年の草加宿

明治初期には、旅籠55軒のほかに稲作地帯を後背地にして、荒物、水菓子、穀物等を扱う店舗が軒を連ね、宿場町として大いに栄えました。明治22(1889)年には町村制が施行され、近辺の11ケ村が合併して、北足立郡草加町が成立しました。
その後明治32(1899)年には東武鉄道が千住と久喜間で開通して草加駅が誕生し、鉄道による交通機関の発達により草加宿の宿場機能は過去のものとなっていきました。明治35(1902)年には旅籠がわずか2軒に激減したと記録されています。
大正から昭和に移り太平洋戦争後の高度成長期が訪れると、自動車を中心にした交通が中心的なり、舟運も陰りを見せ始めました。
昭和33(1958)年には草加市の人口は3万人以上となり、待望の市制が施行されました。都心への通勤が便利になるにつれ、東京のベッドタウンという性格が強くなりました。昭和37(1962)年に入居が開始された松原団地がまさにその象徴です。
一方、草加松原においては、モータリゼーションによる排気ガスと振動の影響により、かつて千本松原と呼ばれた草加松原の松の本数が年々激減しました。昭和51(1976)年に危機感を持った有志により草加松並木保存会が結成されて保存・植樹活動を行い、現在では634本を数えるまでに回復し、国の名勝地に指定されることができました。
昭和の後期頃から大型店舗の進出に伴い、旧道沿いの店舗は経済的な理由によりシャッターを閉めたままの状態のところも多くなり、往年の宿場町としてのにぎわいが失われるようになってまいりました。また、バブル景気から始まった平成の時代になってからは、旧道の地主に相続がおきると、旧道に面した間口が狭くて東西に奥行きが長い土地はマンション業者に買い取られ、分譲マンションが多く建設されるようになりました。せめて1階に店舗を設けてもらって、往年の宿場町としての雰囲気を残していただければ良かったのですが、残念ながら店舗はほとんど設けられておらず、商店街としての体制維持がむずかしい状態となっています。
平成4(1992)年には草加駅東口再開発が完成し、AKOSがオープンしましたが、なかなか草加宿全体の活性化には至っておりません。
そういった衰退した状態を脱却して往年の草加宿としてのにぎわいを取り戻すため、平成15(2003)年9月に行政と市民との協働により「今様・草加宿」実行委員会が立ち上げられました。その後研究成果として『「今様・草加宿」地域再生ビジョン』を発表して草加のまちづくりに関して提言を行うとともに、その実現を検証してまいりました。また平成28(2016)年には、やはり行政と市民の協働により「草加リノベーションまちづくり協議会」が発足し、シャッターが閉まった商店をリノベーションして新店舗として再生し、草加のにぎわいを取り戻すための活動が活発化し始めています。